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エッセイ「優しい時間その掘廖  

              
 台風の影響で南から湿気の多い空気が押し寄せ横浜の地も猛暑となった。ハイカラな建築物、グループホームの東側一帯は雑木林に囲まれた谷合の地形、市民菜園の空間が拡がる。

 ボランティアルームを飛び出して、私たち三人は菜園の畦道を歩いている。三人とは認知症の母を持つリタイア後の息子と母親、そしてボランティアの私である。区画整理された各菜園には夏野菜たちが元気に育っている。アスパラ、キュウリ、茄子、ピーマン、トマト・・・
母親を真中に狭い畦道を縦一列に手をつないで歩いていると両脇の野菜たちが顔を覘かせて声をかけてくれているようである。
「ほら、これ何だか分かる?」
育ちすぎたアスパラガスに萌黄の実がいっぱい付き、その根元には細い芽が顔を出していた。もちろん分からない。
「これは?」ピーマンが葉と同じ色でぶら下がっている。だがやはり分からない。まもなく収穫のジャガイモが土から顔を出しているのを指でさわって「これは?」と聞くがやはり分からない。
難聴の耳に口をつけて「じゃがいも」と言うと、後ろの息子に「じゃがいもだって」と言う。細長くぶらさがっているキュウリを指して「あれは?」と聞くが分からない。耳元で「きゅうり」と言うと頷いて後ろの息子に「きゅうりだって」と言う。
「いちいち言わんでいいよ!」と息子があきれる。

 やがて狭い畦道を抜けるとパーゴラが建っている。ここで菜園の景観を楽しむことが出来る。ホームのお年寄りがここで芋煮会など行うための憩いの場として設けられている。
三人はベンチに腰をかけ、ペットボトルのお茶を一服した。母親はペットボトルのお茶に馴染めず飲みにくそうに口をつけ、まずいお茶だと言う。
 畑のオーナーが眼前の畝に育つキュウリと茄子の収穫にやってきて、袋一杯収穫して帰っていった。ホームの昼の食材にするのだろう。この光景を動画のように三人は眺めていた。

 暑い陽ざしがパーゴラの屋根を突き抜けて母親の頭にさしかかる。息子は自分のツバ付きキャップを母親に被せてあげる。田園の広がりと森の緑が目と心を休ませてくれるのに十分である。ぼーッとしている幸せ、楽しい瞬間だが見ると、母親はペットボトルが飲みにくいと言う。蓋にお茶を注いであげると、一気に飲み、お茶は口に入らずに頬と服を濡らした。持参のお手玉を広げると、お手玉の歌を一回だけ手遊びしてため息をつく。

 外に連れ出すことを計画したのは、琴を弾くことに全身で拒否反応を示したのが契機である。ボランティアのある日、いつもの通りに並んでいる琴の前に連れてゆくと、「もうあかん!」と言ったのである。それは本当に嫌だという全身の意思表示に思えた。私だって加齢現象の中で頭が働かない時がある。だんだん面倒に感じて考えたくない時もある。でも諦めないで時間を掛けて私は行動するようにしている。それがいつか限界が来る時があるのだろうかと思うと情けなくもあり、寂しく思う。
 琴は弾けなくとも、小さな個室から出て、外の空気を吸わせてやりたいとの息子の気持ちも汲んで田園散策となった。ここは恵まれた環境である。

 雲行きは一転し、一陣の風と共に太陽は姿を隠し、雨雲が広がった。変調は母親を不安な心境にさせる。
ベンチの横に群生しているクローバーとネジバナを摘んであげると「おおきに」と大事そうに受け取る。そんな姿はあどけない少女である。母親は年輪を重ねて少女になったのである。

 三人はまた手をつないで畦道を縦に連なって帰った。私は野草たちを母親の興味の中に挿入しようとするが、躓きそうな私の足元を心配し、腕をしっかりと支えてくれている。ミントの葉を一枚摘んで香りを嗅いでもらおうとすると顔を背ける。

 菜園のジャングルを抜け出ると、先ほどから農作業をしていた男性が収穫したばかりのジャガイモを5個両手のひらに抱えて差し出した。
「うわぁ!ありがとう!」と私は歓声をあげたが、母親は無表情で、その瞬間にもあまり感動のしぐさは見られない。
いろいろな刺激を身体いっぱいに浴びた今日のひととき、どんな変化が起こるだろうか、という私の期待は裏切られるだろうか。

 母親の住む棟の個室に戻るには砂利の坂道を通らねばならない。いつものボランティアルームを経由しての帰り、途中に大きな鏡の壁がある。お気に入りの場所である。自分が笑うと鏡の自分も笑う。お辞儀をするとお辞儀をする。こだまのような映像に心からはしゃぐ姿は周囲を明るくする。息子の切ない寂しさも共存する中で。
棟の玄関に着いても、母親は私の手を放そうとしない。

                                     ゆう
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