六白金星はダイヤモンド

宇宙はダイヤモンドになった星たちでいっぱい
星は生涯が終わりになると白色矮星になり
ダイヤモンドに結晶する
私たちの太陽も数十億年後には膨張し
やがて白色矮星へ収縮する
そしてダイヤモンド結晶の塊・星になる

宝石の王様ダイヤモンド
まばゆい煌きに人々は目が眩む
地球のかつての王侯貴族のみが許された宝物
20世紀になると
親から子へ 子から孫へ
価値ある資産へと受け継がれていった

婚約指輪に留まらず
イヤリング・指輪・もっともっと大きな石へ
女性の欲求は果てしなく膨らむ

地球の採掘現場では
鉱区の争い
危険な採掘法
労働者たちは蜘蛛の糸にぶら下がった
杜子春が見た地獄のよう

鉱山の寿命は20〜30年
やがて鉱脈は枯渇する
最後の一粒のダイヤモンドを掘り尽くし
剥ぎ取られた山
裸になった山
残された巨大な穴


宇宙に宿る九つの星の西北に定められた高貴な星
六白金星のダイヤモンドの星

未来の子供たちに
今の私たちが持っているような夢を
その時代でも持てるような環境を
残してあげてください
女性の果てしない欲望の心を捨て
ダイヤモンドの煌きを
ロマンチックな夢に置き換えて
優しい心を育てよう
山が消えないうちに
                   やなぎゆう
参考資料:
開運道運勢学 花見正樹
宝石読本
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エッセイ:冬眠から目覚めて


    帯津良一著「生きるも死ぬも これで十分」を拝読して
                      
ときめいていらっしゃいますか?

 最近私はバイオリズムの高潮期のような健康度を感じています。肩こりもなく目もパッチリ開いて気力も満々。歯科治療による金属除去が大きな転機であることは否めませんが、この爽やかな元気さは50歳代でも体感したことがなく、まだまだ終末とは程遠い感じさえします。これは正に生命エネルギーが高まった状態なのでしょうか。
でも私はいつも我が家にいる3人の透明人間にこう言います。
「もう、いつ迎えに来てくれてもいいからね。よろしく。」と。

 人は誰でも目標を見失って自信を無くし、寂しくなったりかなしくなったり、ウツの症状が出たりすることがあります。ホリスティック医学の第一人者帯津良一氏は著書「生きるも死ぬもこれで十分」の中で述べています。
人は虚空から一人でやってきて、再び同じ場所へ一人で帰っていく存在ですから、心の奥底ではかなしみやさみしさをもち続けているのですと。そして生まれたら死に向かって生きるのですから、生老病死という旅を続けることになるのですと。
 
 これが人間なのですね。自分だけが特別に孤独なのではなく、みんな同じだと思えば素直に受け入れる気持ちになります。すると脳は安心して生命エネルギーを高めてくれるのです。

 でもいつも元気でいるわけではありません。時には辛い症状に落ち込み、嫌いな病院にかけこもうかと思い悩みながら朝を迎えると不思議に自然治癒力が働いてくれるのです。
どんな症状でも約3日から1週間すると完治します。するとまた他の原因で身体の部品が病んできます。どのような些細な部位でも、症状に良し悪しはなく辛いものです。特に人に言い難い部位だと一人で塞ぎ込んでしまいます。それでもその症状はずっと続くわけではありません。

 自然治癒力とは素晴らしいものです。帯津先生は著書の中でその正体は現状ではまだよくわかっていませんと述べています。
切り傷はもとより、手術をしたあとに傷がふさがるのも自然治癒力のおかげですが、その概念はやっと最近理解されるようになってきているようです。
 帯津先生は「場に備わった治癒力」と説明しています。ちょっと難しいですが、「ある物理的な量が、ある空間に連続して分布している状態」のことだそうです。人間の体も、さまざまな物理量が秩序をもって存在していますから、ひとつの場といえます。人体の場を生命場と呼ぶとすれば、病気は生命場の秩序が乱れることで引き起こされます。秩序が乱れると、それを元に戻そうとする力が働きますが、これが自然治癒力ですと説明しています。

 私の生命場は70歳に相応しい場で、さまざまな環境の影響で、秩序はしばしば乱れます。でも自然治癒力がその力を発揮してくれます。こんなに嬉しいことはありません。最近は感謝の連続です。

 今年の冬の寒さは例外で、身の置き所の無い日々を過ごしておりましたが、4月に入ると、人体の骨盤や肩甲骨も季節に順応して開き、啓蟄から目覚めた草や虫と同じように冬眠から目覚めた不思議な動きを感じ始めました。
身体が動くのです。そしてあれをしよう、これもしようと脳の動きも活発になるのです。一日家にいてもやることはたくさんあります。
 自分を見失うと、外に出たくなりますが、心が充実してくると日常生活の中に最高の場を見ることができます。それはひきこもりの場ではなく、創造力や行動力を湧き立たせてくれる場となります。それを目いっぱい高めて行動を起こすときの原動力にするのです。

 自分がどんどん変化していくのを感じます。そしてどこまで変わっていくのか、その自分を観察するのがワクワクします。そのトキメキはまた生命エネルギーを高めてくれるのだそうです。そして最高に高まった状態で虚空に飛び込みたいという人生設計を描いています。
 虚空には両親や夫、友人たちが待っていてくれます。再会も楽しみです。そう考えると、身体の不調もくよくよすることなく平安な心で受け止められるのではないかと、そして死のリハーサルとして日々の修行になります。

 一日一日を日めくりのごとく生きて、今を大事に完結に、そんな旅を心がけようと自分に言い聞かせました。
そして自分のラストシーンを思い描きながらも冬眠から覚めた私の身体は「ジャズを歌おう」と「タイ式ヨガ」の講座に申し込むべく往復はがきを投函していました。

                                       ゆう



参考資料:帯津良一著「生きるの死ぬも これで十分」
(株)法研出版
                         2012.4.8
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エッセイ:路傍の石に躓いて

                       

 冬の夕暮れは早い。家路を急ぐ私の足はバス通りをめがけて街灯の灯が微かに滲む団地内の路地を歩いていた。石畳の小路には晩秋の名残の枯葉が点在していた。叔母が持たせてくれた心尽くしの小袋を両手にぶらさげて私の足はただひたすら大通りに向かって歩いていた。 

 突然、踏み込んだ左足が外側にぶれた。 一瞬の出来事だった。痛みが脳にまで走った。一体何に躓いたのだろう。石畳と落葉の他には何も見えないが・・枯葉を退かして見ると薄茶色で楕円形の小石が見つかった。あと数センチ歩幅がずれていたらこの小石に出会うこともなかったろうに。運とはこういうことか。小石を植え込みに投げ、バス停に向かった。

 空席のない客数を乗せたバスに揺られながら立っていると、身体を支える力を失った足が不安を訴え始めた。やがて空席に座ると足腰は安堵した様子。さあ降りよう。どっちの足から踏み込もうか。戸惑ったあげく自動的に左足が先に着地した。その瞬間痛みが走り、バス停に供えられたベンチに掴まった。
目の前の石段を上り、路地と公園を抜けると10号棟、その3階が我が家である。階段の手すりが有難かった。10年前、病気の夫が手すりを支えに上り下りする姿が脳裏をかすめた。老化の第一歩を歩み始めた心境である。

 玄関に入ると安堵感と同時に明日の行動のために、この災難をどう乗り切るか脳がぐるぐる回転した。明日はボランティアコンサートがある。絶対にドタキャンすることはできない。幸い、メンバーの一人が近くで私を拾ってくれることになっている。そこまでは歩かねばならない。家具に掴まり、カニ歩きをしながら夕食と家事を済ませた。狭い部屋の中を効率よく動くために頭を働かせて動いた。が、左足をかばうと右足の膝の内側が痛み出した。
明日を楽しく過ごすために今何をなすべきかを私は考え、努力することを決心した。

 かつて教えを乞うた腰痛克服アドバイザーの坂戸孝氏の要旨を思い出し、今私の左足「外側の踵と小指との間」で起こっていることは、捻挫による筋肉の緊張である。筋肉が緊張すると筋肉内の血管や神経が圧迫されるために痛みが出ているのだと。冷えも重なって腰のあたりもだるく感じられる。
そこで私は、まず最初に腰の筋肉を柔らかくするために坂戸孝氏の考案した腰痛緩消法を行ってみた。 身体全体が軽く暖かくなった感じがした。そして次にブレンドしたアロマオイルを掌で温め、患部を除き、足指・踵・足首・ふくらはぎ・太ももなど両足ともにマッサージを施した。足指は前後左右にストレッチを行った。そして最後に樹液シート「天然樹液抽出物(木酢液、ハーブ)を患部に貼って、床に就いた。

 真夜中、痛みで目が覚めた。トイレに行くために起き上がったが、足を床に着けて立つことができないことが分かり、這い蹲ってトイレに行った。明日のことが心配になりだした。整骨院に行くか・・どうやって・・誰か松葉杖を貸してくれないだろうか・・などと不安材料がたくさん浮上した。
だがもう一人の私が、それは明日考えることにして、もう一眠りしようではないかと言ってくれた。いくら寝ても眠り足りない私である。夢も見ずに熟睡した。

 早朝目覚めると痛みは消えていた。立ち上がると起立することができた。びっこを曳きながらも歩くことができた。患部に貼った樹液シートは、ほんのり炭の香りが心地よかった。熱を吸い取ったせいか、がちがちに固まっていた。夜中に痛み出したのは、修復する作用の結果なのだろうと理解できた。

 保温靴下を重ね履きして外出することができた。ボランティア先では、わずかにびっこを曳く私を気に掛ける人は誰もおらず、和気あいあいのひと時は過ぎた。

 気分の落ち込みがなかったとは言えない。治らない足のトラブルをかかえて、街を歩いている人は少なくない。その人たちの気持ちがとてもよく分かる。私を支えてくれたのは演奏の仲間たちでもある。重い箏を抱えて、演奏活動をしているが、腰痛や骨折、捻挫などが癖になっている人もいる。皆に迷惑をかけないことは行動を共にすることだとして、松葉杖を付いて海外演奏旅行を成功させた人、車椅子でコンサートに出演したという人もいる。

 軽い捻挫とは思うが、この手の捻挫だと回復には二週間はかかると経験者は言う。血流を促すストレッチを続けるとその翌日には完治することができた。不意の事故とは言え、心に原因がないとは言えない。心と身体と精神にアンバランスがないかどうか反省をすることと、感謝の心を忘れてはならないよい体験をさせていただいた。


       路傍の石 枯葉の下で 何を問う

                                     ゆう
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エッセイ:絆を深めた一品 

                    
「霞を食べて暮らしている?」
私を心配する友人が持ちきれないほどの食品を抱えてやってきた。
お蔭で豪華な昼食がテーブルを賑わした。

パイナップルとグレープフルーツのパイ
フランスチーズとプロセスチーズ
ドレッシングをかけた野菜サラダ
ストローで飲む豆乳スープ
筑前煮、南瓜、さといも、シイタケの煮物
ブルーベリーパン

挽いたコーヒー

ワイングラスにブルーベリーワインを注ぐと、友人は人生に乾杯という。
納豆と味噌汁と梅干と発芽玄米ごはんを常食する私には最後の晩餐のような食事である。
視覚障害者である友人は、この食品をデパートの店員に「美味しいものを」と注文し選ばせたと言う。

当然のことながら食べきれるはずはない。
ワインを早めに飲みきるように、と言い残して友人は去った。

 夕食、残ったワインを少量グラスに注ぎ、口にすると昼の味とまるで違うことに気付く。友人との会食という時の脳はいかにリラックスしていたことか、一人と二人では脳内快楽物質の分泌量がこんなにも異なるのか実証の味だった。
毎晩チビチビと一人晩酌を思うと楽しさよりも義務感を感じる。胃腸にも好くない。そこでこれを楽飲してくれる人に差し上げようと、階下の隣人を選びチーズを添えて持参した。喜んだ夫婦から返礼のケーキを頂戴した。
部屋に戻ると階上の隣人から茹でたトウモロコシが届いた。ラッキーチャンス、私はチーズと階下から頂戴したケーキを添えて返礼した。
「海老で鯛」と言って喜んでくれたが私にとってはトウモロコシの方が鯛だった。
不思議なことに向かいの住人から畑で収穫したばかりの小玉スイカ半分とミニトマトが届いた。私はパイとチーズで返礼した。

今夜、遠隔の友人、階上・階下・向かいの隣人そして私、差し入れ一品が絆を紡ぎ、心のテーブルを囲んだ夏の夜のひとときであった。
断続の大降りは途絶えたが、盆踊りは団地群の灯の影に消えていた。

                                     ゆう

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エッセイ:映画「星守る犬」を観て


                
 この映画は村上たかし原作のベストセラーコミックを映画化されたもの。
北海道の小さな町、死後半年を経過した男性(西田敏行)と死後ひと月の犬の死体が発見され、映画はここからスタートします。
中年男性の孤独死と片付けられる事件を現場に残された領収書やリサイクルショップの買い取り証を発見した市役所勤務の奥津青年(玉山鉄二)が身元不明の男性と犬がたどったと思われる道をたどる旅に出ます。
その途中で、北海道から上京し、夢破れた少女(川島海荷)が彼の旅の同行者となります。
「望みつづけるその先に、きっと希望があると思う。」とのキャッチコピーでドラマは展開しますが、最後には何もかも失い無一文の裸となって山の中で孤独死を迎えます。一人と一匹がたどった、悲しくも美しい物語との好評を得ていますが、あまりにも寂しい結末に私は立ち直れないほどの絶望を感じました。人は温かい家族がいて、その温もりの中で、艱難辛苦を乗り越えていけます。
子供の頃に両親の病死により祖父に育てられた奥津青年は自分の孤独な人生と比較し、この男性は愛犬ハッピーと過ごした切なくも幸せだったと、自分よりは決して寂しくはないはずと語る。ここは私も吾が生い立ちを思うと同感します。
一方、母親の再婚によって義父の暴力から逃れてきた少女は奥津青年との旅の中で様々な人間模様を見、二度と帰りたくない家で再び踏ん張ってみると強い決意を新たに青年に感謝して別れます。

落着した事件後、青年は男性の遺骨の一部を現場に埋葬した犬の墓に納めます。そして街に捨てられた犬を抱き上げ、男性のたどった犬との友情を思い出しながら、孤独の人生から脱却しようとする前向きな姿を映し出しながら、ドラマは明るく終わります。エンディングのミュージック(稲本響作曲)が心に優しく響きます。
要所要所に配置された豪華キャスト(余貴美子、温水洋一、濱田マリ、塩見三省、中村獅童、岸本加世子、藤竜也三浦友和)は観客に安心感を与えます。
犬の演技は難しい。わがままに振舞っていた旅の初めと比べると、男性との間に深まっていく愛の絆の変化が感じられます。
ふたりが最後にたどり着くひまわり畑は監督(瀧本智行)が全国を探してやっとみつけたとのこと。そして『星守る犬』は、「犬がもの欲しそうに星を見続けている姿から、手に入らないものを求める人のことを指す」という意味がドラマの中で語られています。

それにしても、社会の底辺に生きる人々の人生はあまりにも荒んでいる。
そこにフォーカスした作品だから仕方がないが、もう少し心豊かに生きられる方法はないものかと救われない気持ちにもなります。

この映画は全国317スクリーンで公開され、2011年6月11、12日の初日2日間で興収1億4,408万2,600円、動員11万9,297人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第6位となったそうです。

ストーリーの展開が漫画の視点を抜けていないような感があるのは、わたしだけでしょうか。

                                           ゆう



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エッセイ「星は原子炉を持っている」         



 140億年前のビッグバンによって宇宙は時間と共に生まれた。そしてその1秒後には自然界に存在する基本的な粒子と四つの力(電磁力・重力・強い力・弱い力)が、3分後には水素核とヘリウム核が出現した。数億年で原始的な銀河が生まれ、その中で星々が誕生し、.銀河の時代が1兆年ごろまで続く。
90億年に太陽が誕生、自らの寿命に向かって核融合を繰り返し、200億年には寿命を迎えるという。現在は開闢後140億年であるということで太陽はすでに50億年経ち、あと50億年で寿命を迎えることなる。

 太陽も星も、水素とヘリウムの重さの比率は、約70:30になっている。ところが地球も人間もそれだけではできていない。この自然界には92の元素があり、すべて星の原子炉がつくりだしたものである。
炭素・窒素・珪素・マグネシウム・カルシウム・ネオン・ニッケル・ウラン・ラジウム・鉄・・・・全部星がつくった。

 普通の星の中心部は1000万度?3000万度。この中で4個の水素が核融合してヘリウムになる。この際、莫大なエネルギーが放出される。もし太陽が全部石炭でできていて化学反応によって今と同じエネルギーを出すとしたら、10万年で燃え尽きてしまうそうである。

 星はその進化の過程でエネルギーを放出する。軽い原子核が融合すると水素爆弾に、逆に重い原子核が崩壊するとウラン爆弾になるという。太陽は水素が燃えて中心部にヘリウムがたまると老年期に入り、ヘリウムが燃料となって炭素ができると寿命となる。

 このように宇宙が息づく中で.人間の存在はどんなであろう。空間的にも時間的にも今の瞬間に現れ次の瞬間にはいなくなる点のようなところで今の瞬間を生きているという存在。やがては太陽の熱で気体となって銀河系の中の、物質の循環の中にかえっていくという存在である。
 
 そのような小さな小さな存在である人間が、宇宙が造ったすべての資源を使用して生きている。自らの生活に必要な発電のために原子力を使うことは分不相応と言える。福島原発の人災は大いなる宇宙がそう警告している。
宇宙が許すのは畏敬の念と感謝の心である。そして地球や地球に住む生き物すべてが公平に星がつくった資源を利用させていただくのが原則である。ひとにぎりの人間の、利権のために利用するのは真理ではなく宇宙の神の怒りとするところである。

 太陽の恵み、星や銀河の輝き、知的生命の育つ環境は永遠ではない。一度しかない奇跡的な人生をビッグバンに感謝して、みんなで平和に暮らしたいものである。

                                            ゆう

参考資料:「宇宙と人間」小尾信彌
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俳句「厳夏日に」

               
                    
     二人席 細き三人 夏衣


     リウマチを 語る笑顔と 孟夏の掌


     厳冬も 素足と語る ホトトギス


     我もまた ロスジェネ語り 夏の雲


     三人は この街に住む 夏桜


     偶然の 再会誓い 夏燕


     厳夏日に 心ふれあう 車上かな
                               ゆう


     
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エッセイ「心向くままに」


 私は草取りや清掃が好きである。何故かというとその成果を見たり思い浮かべたりすると心が和むからである。ではそういう仕事に就けば好いと思うだろうが、それは違う。たまにやるからである。
畑では植栽した野菜と一緒に伸びる草を、手で抜いたり、鎌で刈ったり、ただ大地をひたすら見つめて黙々と突き進み、ふと手を休めて振り返ると、黒々とした土に野菜たちが一際輝いて見える。この時間は自我を忘れ、あるがままの自分になれる。

今日、団地内の共有部分である階段の清掃をひとりで行った。5階建てだが自分の居住する3階から1階までを。やる気満々のスポーツだった。
梅雨の季節は湿っぽく、くもの巣がはって小さな虫が繁殖し、天井や蛍光灯、壁などに塊になって付着している。放っておけばお化け屋敷のようになり、やがてスラム化する。月に一度の一斉清掃日だけでは間にあわない。10世帯の住人が毎日数往復する階段は汚れが早い。私は気になって仕方がない性分なのである。
傘立てもないのに置きっぱなしの階下の踊り場には小さな虫が発生し、傘の周辺をたむろしていた。私は手ぬぐいで頭を覆い、脚立に乗り箒で天井と蛍光灯の周りのくもの巣を払い落とした。その作業を階下まで行った。
1階の若奥さんが突然ドアを開けたのが脚立にぶつかった。驚きながらお互い挨拶を交わす。
「すみません。家でやらなければいけないのに」と恐縮していた。
「いいのよ」と私は言った。
彼女はポストから郵便物を取り、部屋に入っていった。
新聞配達のバイクが止まり、夕刊を配りに来た。頬被りのいでたちの私を見て、恐縮して階段を駆け上がり、直ぐに降りてきた。
私は玄関のポストの上や天井、壁を箒で掃いていた。
私の部屋の向い側に住む夫婦が買い物から帰ってきた。病弱な奥さんは最近笑顔が消えている。毎日の買い物が夫婦で出掛ける唯一の運動を兼ねた気分転換の様子である。階段の清掃などできる身体ではない。元気に見える私が羨ましいのであろう。恨めしそうな顔をして静かに上って行った。

煤払いと掃除が終わった私は、今度は水をはったバケツと雑巾を持って踊り場に出た。玄関とメーターボックスの壁、表札などの拭き掃除である。やはり3階から1階まで順に行っていった。
4階の息子、ついこの間まで小学校の坊やだった子供がいつの間にか社会人になっていた。ほっそりとしたかっこよい青年が帰宅し、階段を上ってきた。すれ違いざまに挨拶した。
私は「掃除のおばさんです」と言った。頬被りが可笑しいらしく青年は噴出すように笑い出した。
「何笑ってんのよ!」青年は今まで見たことのない親しい表情を見せた。
「見てごらん。天井が煤だらけだったのがきれいになったでしょ!」
青年は天井を見上げて「ほうー」と言った。
「スラム街のような所に帰ってくるのはいやでしょ!」
「うん」と言って、上って行った。
男の子はいい。こういうつっけんどんな会話ができる。女の子だったらこうはいかないだろう、と思った。

2階の奥さんがポストの郵便物を取りに下りてきた。
掃除をしている私を見てびっくりし、
「暑いのにごくろうさん」と言った。
「きれいになったでしょ!」と私はきれいを催促した。
しかし彼女は私のいでたちを見て労いの言葉を発したが、きれいだとか、汚いとかは実はどちらでもよいのである。気にしないタイプなのである。実際、彼女の住む2階の踊り場は両側の住人共に清掃に無頓着なのである。一年中置きっ放しの傘、しかも帯止めもせずに放置している。そこに虫が発生し、上部の表札にも虫の巣が出来ているのも気がつかない。だから、今それがきれいになったことも気がつかないのである。私は押し付けがましいことは言わない。何故ならばこれは自分のためのスポーツなのだから。

他の住人も階段を上下する時は足元を見て天井を見る人は殆どいない。だから天井をきれいにしても気がつかない。
私は幸か不幸か、気になって仕方の無い性分なのである。実際、きれいになると私は最高に幸せな気分になれる。だからこの共有部分の階段という空間をきれいにするのである。それは畑の草取りと同様、終わったあとの達成感と清潔感が満足感に変わり、最高の快感となるひとときなのである。

汗と埃まみれになった身体を清め、心地好い疲労感を音のない世界でひとり静かに酔っている私である。

                                           ゆう

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エッセイ「バイオリズムと寿命」

                    
 人間には身体・感情・知性のコンディションを左右する三つのバイオリズムがあるということを知ったのは今から30年余前のことである。Pは身体(Physical)、Sは感情(Sensitivity)、Iは知性(Intellectual)である。
これを調べるには、当時はバイオリズム定規というものがあり、バイオリズムシートにセットして性格なリズム曲線を描かねばならなかった。定規のわずかな狂いやペンの太さなども正確性に影響を及ぼした。今はパソコンで検索すれば資料を提供してくれる優れた親切なサイトが多数ある。生年月日を入力し、調べたい日をクリックすれば図表が表示される。便利で横着な時代になったものである。

 私は自分の未来に向かって次々とバイオリズムを表示してみた。すると突然ショッキングなページが現れたのである。寿命への暗示、PSI三重線の低調期の出現である。それは今年度の12月26日。私はこの日に死ぬのだろうかとその日のデータに釘付けとなった。母と夫の死はどうであったろうか。私は念のため命日を入力し調べてみることにした。二人とも三重線ではないが、PSIとも低調期であった。

 両親と夫を亡くし、一人身となった私は死の覚悟は出来ていた。頃合いを見て迎え頼むと日頃から亡き3人に祈願していた。
この事件は今年2月のとある日のことだが、今年度12月に寿命を迎えるには少々早すぎる。未整理の事柄が少なくない。私は少々焦ってしまった。そこで開運道運勢学創始者花見正樹師匠にご指導を仰ぐことにメールを送った。

「はて、来年仕事があるというのに死んでる場合ではありません」との返信を頂戴した。私は現在健康であるが、日頃からPPK死のことを祈願しているのでそういうこともある。私はバイオリズムデータのことを師匠に伝えた。

 開運道運勢学は花見正樹氏の発明で、ドイツで発見されたバイオリズムと中国で研究された気学の両方を取り入れ独自の学説を構築した学問である。
師匠は早速百年運と今年の年運を送ってくれたのである。
この運勢学は開運道のホームぺージより独自に学習することができるように作られている。

 今年の年運を鑑ると確かに衰運の暗示がある。しかし百年運によると私の今年の運勢は全体的に吉運であることが判明した。従って寿命はまだ先であろうと理解できる。私は少々ほっとした感だが一瞬がっかりもした。じゃぁ一体私はいつ死を迎えるのだろうか? 改めて興味が湧きパソコンで更に未来を追って行った。するともっと高い確率の要注意日が現れたのである。それは58年余で8日しかない出現頻度で単一注意日よりストレスが3×3=9倍も高いと考えてよいそうである。こういう日は特に注意が必要で無理をせずに安息日とするとのコメントがある。
 私はこれだ!と直感した。それは2020年2月、あと8年半である。
充実した人生、安らぎの死、この偉大なる死に向かって私は一所懸命生きようと思った。私のやりたいこと、人生の目的はまだまだあるはずである。意識のレベルをあげて、この宇宙に宿る生命体となって存在した不思議に感謝し、8年半をマヌ経典に記されている心の遊行期のように生きてみよう。と思った。
高齢化社会の中で心も身体もボロボロになって生かされている人たちが沢山いる。自分の人生を自分で生きる素晴らしい生き方が絶対あるはず。心美人を模索してみたい。

                                     ゆう

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エッセイ「優しい時間その掘廖  

              
 台風の影響で南から湿気の多い空気が押し寄せ横浜の地も猛暑となった。ハイカラな建築物、グループホームの東側一帯は雑木林に囲まれた谷合の地形、市民菜園の空間が拡がる。

 ボランティアルームを飛び出して、私たち三人は菜園の畦道を歩いている。三人とは認知症の母を持つリタイア後の息子と母親、そしてボランティアの私である。区画整理された各菜園には夏野菜たちが元気に育っている。アスパラ、キュウリ、茄子、ピーマン、トマト・・・
母親を真中に狭い畦道を縦一列に手をつないで歩いていると両脇の野菜たちが顔を覘かせて声をかけてくれているようである。
「ほら、これ何だか分かる?」
育ちすぎたアスパラガスに萌黄の実がいっぱい付き、その根元には細い芽が顔を出していた。もちろん分からない。
「これは?」ピーマンが葉と同じ色でぶら下がっている。だがやはり分からない。まもなく収穫のジャガイモが土から顔を出しているのを指でさわって「これは?」と聞くがやはり分からない。
難聴の耳に口をつけて「じゃがいも」と言うと、後ろの息子に「じゃがいもだって」と言う。細長くぶらさがっているキュウリを指して「あれは?」と聞くが分からない。耳元で「きゅうり」と言うと頷いて後ろの息子に「きゅうりだって」と言う。
「いちいち言わんでいいよ!」と息子があきれる。

 やがて狭い畦道を抜けるとパーゴラが建っている。ここで菜園の景観を楽しむことが出来る。ホームのお年寄りがここで芋煮会など行うための憩いの場として設けられている。
三人はベンチに腰をかけ、ペットボトルのお茶を一服した。母親はペットボトルのお茶に馴染めず飲みにくそうに口をつけ、まずいお茶だと言う。
 畑のオーナーが眼前の畝に育つキュウリと茄子の収穫にやってきて、袋一杯収穫して帰っていった。ホームの昼の食材にするのだろう。この光景を動画のように三人は眺めていた。

 暑い陽ざしがパーゴラの屋根を突き抜けて母親の頭にさしかかる。息子は自分のツバ付きキャップを母親に被せてあげる。田園の広がりと森の緑が目と心を休ませてくれるのに十分である。ぼーッとしている幸せ、楽しい瞬間だが見ると、母親はペットボトルが飲みにくいと言う。蓋にお茶を注いであげると、一気に飲み、お茶は口に入らずに頬と服を濡らした。持参のお手玉を広げると、お手玉の歌を一回だけ手遊びしてため息をつく。

 外に連れ出すことを計画したのは、琴を弾くことに全身で拒否反応を示したのが契機である。ボランティアのある日、いつもの通りに並んでいる琴の前に連れてゆくと、「もうあかん!」と言ったのである。それは本当に嫌だという全身の意思表示に思えた。私だって加齢現象の中で頭が働かない時がある。だんだん面倒に感じて考えたくない時もある。でも諦めないで時間を掛けて私は行動するようにしている。それがいつか限界が来る時があるのだろうかと思うと情けなくもあり、寂しく思う。
 琴は弾けなくとも、小さな個室から出て、外の空気を吸わせてやりたいとの息子の気持ちも汲んで田園散策となった。ここは恵まれた環境である。

 雲行きは一転し、一陣の風と共に太陽は姿を隠し、雨雲が広がった。変調は母親を不安な心境にさせる。
ベンチの横に群生しているクローバーとネジバナを摘んであげると「おおきに」と大事そうに受け取る。そんな姿はあどけない少女である。母親は年輪を重ねて少女になったのである。

 三人はまた手をつないで畦道を縦に連なって帰った。私は野草たちを母親の興味の中に挿入しようとするが、躓きそうな私の足元を心配し、腕をしっかりと支えてくれている。ミントの葉を一枚摘んで香りを嗅いでもらおうとすると顔を背ける。

 菜園のジャングルを抜け出ると、先ほどから農作業をしていた男性が収穫したばかりのジャガイモを5個両手のひらに抱えて差し出した。
「うわぁ!ありがとう!」と私は歓声をあげたが、母親は無表情で、その瞬間にもあまり感動のしぐさは見られない。
いろいろな刺激を身体いっぱいに浴びた今日のひととき、どんな変化が起こるだろうか、という私の期待は裏切られるだろうか。

 母親の住む棟の個室に戻るには砂利の坂道を通らねばならない。いつものボランティアルームを経由しての帰り、途中に大きな鏡の壁がある。お気に入りの場所である。自分が笑うと鏡の自分も笑う。お辞儀をするとお辞儀をする。こだまのような映像に心からはしゃぐ姿は周囲を明るくする。息子の切ない寂しさも共存する中で。
棟の玄関に着いても、母親は私の手を放そうとしない。

                                     ゆう
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